憑霊信仰論 妖怪研究への試み

今回は私が最も影響を受けている一冊を紹介。オカルトの本ではなく、民俗学の学術的な本です。

京極夏彦の「姑獲鳥の夏」の影響で、読んだ人も意外に多いと思われる一冊です。私はちょっとずれた時期に、民俗学ブームの方で知った口ですが、こちらのタイミングで知った方も多いと思います。

憑霊だとか憑き物、というと胡散臭い感じですが、実はこの辺の概念というのは自分たちの生活の中にも結構浸透しています。

例えば、やたら運が良い日に「今日はついている」と言う事があると思いますが、この「ついている」は何がついているか考えた事があるでしょうか?

これは、神様であるとか、あるいは人外の、何か自分に幸運をもたらしてくれる「もの」が「憑いている」という所から来ています。「憑いている」状態は、日常とは異なる非日常の状態であり、だからこそ想像し得ない幸運が得られている、という、そういう考え方です。

この辺くらいまでなら、まあ害の無い話なのですが、問題は「憑き物筋」と言われる家筋の事です。最近は聞かなくなったと思うので、知らない人は知らないと思いますが、「あそこの家は狐憑きの家だ」とかいう話を聞いた事がある人もいるかと思います。狐以外にも、犬神や蛇などがありますね。

この憑き物筋の家の話は、結構胸くその悪い差別の話が根底にある事が多いようです。しかも、いわれのない差別である事もあります。

憑き物筋は、血縁関係を結ぶこと、結婚して子供が出来るとそちらにも引き継がれる、という事で、忌み嫌われていました。血筋による継承ですね。昔は、憑き物筋の家系とされる女性が、それを理由に婚約や結婚を破談にされた、という事も少なくなかったようです。

憑き物筋の家は狐や蛇、犬の霊や妖怪などを使って、他人の富を奪ったり、呪いをかけたりする事から嫌われていました。他人に呪いをかける事を依頼する人などもいたのですが、ともすれば依頼した自分に害が与えられる可能性もある訳で、そうした意味では感謝される事も無かったようです。

この憑き物筋が、では何で発生したか、というとここが問題です。本当に霊なり妖怪なりが使役できた例もあるのかもしれませんが、基本的には差別が根底にあります。

昔の話なので、当時の事を想像して欲しいのですが、昔は人が住む単位は村が多かったのです。隣の村までは距離があったりして、簡単に行き来もできず、当然今のようにインターネットなんかありませんので、入ってくる情報なども限られたものでした。

そんな感じで閉じられた社会や空間であったため、基本的には同じような暮らしをしていれば、同じ程度の収入や生活レベルとなりました。そんな中で、他より良い収入、高い生活レベルになる家が出て来ます。あるいは、そういう家が外から入ってきます。

それは、普通に考えるとその家が努力をした結果で、場合によってはもしかしたらあくどい事をした結果かもしれませんが、何らかの他人と違う行為で他の人より良い収入や生活レベルを得るに至った訳ですが、当時はそこまで考えられる知識や知恵が無い人も多かった。

そうして成り上がったその家以外の家からは、それが不思議な現象にしか見えなかった訳です。同じ暮らしをしているはずなのに、何故?という。はず、というのが思い込みで、実際にはそうではなかったのに、ですね。

人間というのは、不思議な、理解できない現象が身近にあると、恐怖を感じるなど、ストレスになります。あるいは、富が絡んで来ると、妬みもします。

そこで、適当な言葉や概念を考え、理解できない現象にそれに対応する名前を付けます。

「あそこの家は、狐を使って他の家から金品を盗んでいる。だから、同じような暮らしをしているのに、他の家より金があるのだ」

と。これに、「狐憑き」という名前を与えて、その家は「狐憑きの家筋」とした事が、憑き物筋の発生のひとつです。努力をしなかったものが、妬みで差別し、他家を貶める、という非常に人の醜い一面によって出来てしまった、謂われのない差別である事もある訳です。

今は、昔と違って知識も情報も得られる時代で、それが迷信である事が分かっているので、新たに憑き物筋とは言われないようになっていますが、まあそれでも妬みから想像で、あの家はあくどい事をして儲けたから金を持っているんだ、みたいな事は普通に言っていたりしますね。そういう意味で言うと、本質的にはあんまり変わっていないのでしょうが。

ぎりぎり、まだお年寄りでもあの家は憑き物筋の家だ、とかいう人がいるかもしれませんが、それは大体謂われ無き差別の結果ですので、そんな話を聞いたとしても、色眼鏡で見ない事が大事です。

平和的なものもひとつ。憑き物で、差別の無い形で今でも残っているものでは、座敷童があります。座敷童が「憑いている」状態だとその家は栄えますが、家から出て行くと没落する、という話はよく聞いた事があると思います。

座敷童は血筋で引き継がれる事はありません。座敷童が居たい家かどうかで、そうでなければ自発的に出て行って移ります。そのため、座敷童が出て行かないように良い家であり続ける、という努力の肯定がされる形なのが良いですね。ただまあ、出て行ってしまった後は、何だかんだ言われるんでしょうが……。

あと、よく分からないものに名前を付けて、とりあえず何となく分かった気になって気持ち的には一段落する、といったものに、妖怪もあります。

川で誰もいないのに小豆を研ぐ音がした!とか、峠を歩いていたら突然身体が重くなった!とかですね。単純に考えれば、幻聴だったり疲労が原因だったりするのでしょうが、当人は理由の分からない現象に襲われ、気味が悪い。また同じ事に遭遇するかと思うと、不安になります。

不安が完全に解消される訳ではないのですが、それが小豆研ぎという妖怪、子泣きじじいという妖怪、と名前を付け、その妖怪がどんなものであるか、それ以上の害を為すのか為さないのか、退治方法は、などなど設定を考えていってやると、本当はちゃんと分かってはいないはずなのに、何となくそういう存在のせいだと分かった気になって、少しだけ安心できたりします。

もうちょっと害がある例だと、かまいたちが良いんでしょうか。いきなり皮膚がすぱっと切れる現象に遭って、理解は出来ないし、いつでもどこでも発生するのか不安になります。それをどこそこに生息している、とか考えれば、そこに近づかなければ切れない、と注意すれば怖くなくなります。場所的なイレギュラーがあったとしても、「たまたまそこで出くわした」とたまたま移動してきた事にすれば良いですし。

ちょっと横道に逸れますが、私は「放射能による健康被害」という言葉が嫌いです。というか、嫌悪しています。大雑把に言うと、「放射能」というのは、ある元素が放射線を出しながら崩壊して、別の元素に変わる能力(性質)がある、という意味を持つ言葉です。能力を指す言葉なんです。

仮に、狐が本当に「憑く」とした場合、「憑く」事が害があるのではなく、「憑いた」狐が悪さをするから害があるんですね。「憑く」事に害があるのであれば、座敷童も憑いたら害があるのか、という話です。

放射能で言うと、放射能を持つ元素が、α線、β線、γ線などの放射線を出しながら崩壊し、この線を浴びる=被爆する事によって、細胞やDNAなどが傷つけられるなどした結果、放射線障害という健康被害が出る事があります。

まあ、普段経口摂取している食べ物でも放射性物質が含まれているものがあったり、自然にも存在しているので何も無くても被爆している、等色々ありますが、不安がったり、不安を煽ったり、あるいは土地や人が汚染されている、等々言うのであれば、ちゃんとした言葉を使って欲しい所ですね。

避けなければいけないのは、思い込みによる、土地や人の「放射能汚染」という、新たな憑き物筋のような謂われ無き差別の被害を生み出す事です。昔と違って教育を受ける機会も、知識を得る手段もふんだんにある訳ですから、間違った言葉を使わない程度には、きちんと学んでいきたい所です。自分もですけどね。

という事で横道に逸れましたが、言葉や名前とそれが指す概念、普段何気なく使っているそれらが本当は何を指しているか、どういった経緯で出て来たのか、深く推察していくという、そういう普段の生活では得られないような考え方を得るには、とても良い本です。

褒められるものではないですが、「憑き物筋」というシステムは、人々の不満や不安を解消する事を目標と考えると、よく出来たシステムでもありました。故に忌まわしくも長く残ってしまう事となりました。システムを開発する人が、システムの本質とは何か、を考えるのにも良い一冊になると思います。

詳細隠蔽され、うまく動いてるシステムをリバースエンジニアリングして要素を検証していくような部分もある、と読める部分もありますし。私がシステム開発の技術者として影響を受けたのはこの辺ですね。

今回話題にしたのはこの本のごく一部の内容から、自分が感じた事などを書いただけで、実際はもっとちゃんとした本です(笑)。

単純に、憑き物や妖怪、日本における神様と鬼など、陰陽道とかまじない、あとは昔の村社会なんかに興味がある人は当然ばっちりマッチすると思いますので、是非ご一読を。


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